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THIS IS YOUR LIFE.

私以外私じゃないの

20110311

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もう五年も経つんだね。
まだ五年?とは思わないな、五年はわりと重たくて長い時間。

当時二十代だった私は立派な三十路こじらせ独女と成り上がり、当時付き合っていた彼とは別れて随分経つ。
仕事に対する覚悟も、人生に対する覚悟も中途半端なまま、実家でなんとなく流れる日常に乗れていた。

そんな日常に鋭い爪痕を遺したのが3.11だったように思う。

※以下は筆者個人の被災経験を綴ったものです。時系列は記憶に頼るところがあり正確でない可能性があります。
また、比較的被害が小さかった地方での被災経験談になります。より大きな被害を受けた東北地方にお住まいの皆様には心よりお見舞い申し上げます。

14:46 被災

当時私は、東京都港区のオフィスに横浜の実家から通っていた。
外回りの仕事なので、関東近県に出かけることも頻繁だった。

私が被災したのは、大宮に向かう地下鉄銀座線の車内。

最前の車両で座席に座っていたが、突然、今までに経験したことがない勢いで急ブレーキがかかった。
次の瞬間、車体が、線路を起点としてぐわんぐわんと揺れ始めた。

東日本大震災が発生した瞬間である。

それは勿論今までに経験したことがない揺れ方だし、「ドラゴンヘッド」よろしく富士山が噴火したのかって思ったんだよね、私。

電車は止まったまま。

銀座線の小さな空間に取り残された私たちは、赤の他人であることも忘れてお互い声をかけあい不安を取り去ろうと必死だった。

中には下校途中の小学生もいたし(この子は動じずに本を読んでたりして、偉かったと思う)
気の毒なことに過呼吸気味になってるおばさんもいて、皆で声をかけたり背中をさすったりしてあげてた。

ラッキーなことに私達が乗っていた電車は銀座駅に到着する寸前だったようで、携帯電話の電波を少しだけ拾うことが出来た。

隣に座っていたおじさんの携帯電話が鳴った。
勤めている会社からの緊急メールだった。

「震度8だって」

不明確な情報ではありながらも、私たちはこれが大地震の揺れで、
それが想像を絶するほどの規模のものであるということをそこで知ることになるのである。

15:30 鉄道全線停止

三十分ほどだろうか、車内に閉じ込められた後、東京メトロが全線停止するとのアナウンスとともに銀座駅に降ろされた。

幸い停車中の車内で拾った僅かな電波のおかげで、弟以外の家族の無事は確認できていた。

私の家は横浜である。
既にJR線も運転を見合わせたことがわかっていたから、もう手段はひとつしかない。

明るいうちに歩けるところまで歩かねば。

私は横浜方面に向かう国道一号線を、歩き始めた。

17:30 五反田付近

三月の始め、毎年の如く春の気配を見せながらも夜はしっかりと冷え込む、そんな天気の日だったように思う。

途中、小雨がぱらつく中二時間程歩いた頃、私は五反田付近にいた。

隣は国道一号線。
道路にぎっちり詰まった車が、さっきから一ミリも進んでいないように思える。

とはいえこの道路が向かう先は確実に横浜方面。
私は歩き始めた時から、歩き疲れたら席が空いていそうなタクシーに乗り込もうと考えていた。

ちょうど五反田を過ぎたあたりに一軒コンビニがあり、目の前に停まっているタクシーがあった。

車内には女性がひとり。

私は思い切って窓をノックした。

乗っていた女性に、もし席が空いていたら乗せて欲しいと話したら、
席は空いているから、コンビニに買い出しに出ている上司が戻ってきたら相談してもいいか、とのこと。

程なくして上司と運転手が戻ってきたのでもう一度お願いすると、

「むしろひと席空いているから、誰か乗せてあげたいと話していたところだったんだよ。
長い旅になるだろうから、きみもコンビニでトイレを済ませて、食べるものを買っておいで。待ってるから」と快諾してくれた。

その上司の方の言うとおりに買い出しを済ませタクシーに乗り込むと、赤の他人とのつかの間の長旅が始まった。

タクシーにて

乗り合わせた上司と部下の女性、彼等は大手化粧品メーカーの広報をされている方々だった。

私も人とコミュニケーションをとることを生業としており、つまりこの車内にいる全員が社交に慣れた類の人間であったことも幸いし、災害のさなかでありながらも取り乱すことなく和やかに過ごせたのは、双方の社交性の所以だったように思う。

もうひとつ幸いなことに、このタクシーには今時珍しくカーナビやらテレビやらが付いていなかった。
カーラジオからのみ得られる被害情報は私たちの会話を曇らせるには事足りず、
私達は幸か不幸か、深夜自宅に帰りテレビをつけるまで、津波の被害や原発事故について知ることがなかったのである。

23:30 東急線運転再開

この時間になっても、私達の乗ったタクシーはまだ田園調布付近にいた。
電池切れ寸前の携帯電話で東急線の運転再開を知ると、私たちは国道を降りて田園調布の駅に向かった。

駅に向かう道は国道の渋滞が嘘のようにスムーズで、あっという間に到着した。

いくらかかってもいい、と腹を括って乗ったタクシーだったが、渋滞により膨大にふくらんだタクシー代は某大手化粧品メーカーさんの経費にしていただいたようだった。

結構ガマンしていたトイレを済ませ、私たちは名刺交換をして横浜方面の電車に乗った。

 

電車を降りる時、

「これも何かのご縁ですから、改めてご飯でも行きましょうね!」と挨拶を交わして、今日出会ったばかりの私たちは別れた。

その後、お礼のメールをして何度かメールのやり取りがあったが、結局彼等とふたたび会うことは無かった。

25:00 帰宅

思いの外長い一日になった。

弟はすこし離れた友人の家にいて帰宅できず、父は会社の責任者なのでそのまま会社に泊まることになっており、自宅では、母がひとりで待っていた。

事前に無事が確認できているとはいえ、やはり無事帰宅して家族に会えた時の思いは言葉にできないなにかがあった。

深夜になっても依然として余震は続き、一時間もおかずに緊急地震速報が鳴っては揺れ、鳴っては揺れ。
きっと多くの人にとってそうだと思うが、あの夜が人生でいちばん眠れぬ夜であったように思う。

東京で被災した私の被災経験はこんな感じ。

たまに人に話すことはあったけれど、色んな意味できちんと残しておきたい日の記憶。

津波や建物崩壊の被害を直接被ったわけではないけれど、都会で被災した私なりの被災経験は、それはそれでまた来るかもしれないそれに活かせたらと思う。

私は家族のもとに帰れたけれど、もう家族に会えなくなった人がこんなにいる日は他にない。

また、そうやって家族に会えなくなる可能性にこんなに迫る日も他になかっただろう。

色んな意味で忘れないように、五年目の節目はそうやって刻んでおこうと思う。

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